取締役会長
山本 恵
Megumi Yamamoto
ピーハピィ創業者。プロデュース以前に奏者、司会者、プランナー講師などの豊富な経験を持ち、20年以上ブライダル業界で活躍。観光地や、想い出の場所などお客様のご要望からオリジナリティー溢れる結婚式を数多く手掛けている。6次産業化プランナーとして地域に根ざした活動を続けている。
1992年、結婚式の挙式や披露宴でのオルガン奏者として結婚式の仕事に関わりはじめる。そこから婚礼業界は怒濤の様に変化していった様子を見ることが出来たのは良い経験だった。
1999年、奏者仲間の後輩の披露宴の司会を受けたところから司会をはじめる。お客様と打ち合せが出来る司会者としてここから数年おこなう事となる。
2000年前後、婚礼業界は90年代後半にゼクシィが全国で地域版が発売されるようになり、クローズドだった婚礼の進行や内容がオープンになり始め、オリジナルなモノが出始めた時期だった。結婚するときは上司や恩師にお願いしていた「媒酌人」という肩書きの人を置かなくなってきたのもこの時期である。
2001年、アメリカでジェニファー・ロペス主演で「ウエディングプランナー」という映画が公開になったコトで言葉として少し知られるようになってきた。2002年日本でも同じタイトルのドラマが放映され、そのドラマの第1回を観た私はウェディングプランナーを志す。(単純である)
ゲストハウスの司会者や、プランナー講師として活動をはじめ、自身でお客様にプロデュースするための基盤を創りはじめる。インプットとアウトプットの繰り返しを3年ほどしていた。
2010年、生まれ育った大阪から20才で結婚した私は、主人の転勤で京都、三重、愛知と移動してきたが、すっかり茨城県で生きていく事を決めて地域に根ざした活動をしたいと思っていたところに、水戸市で、ある歴史映画のオープンロケセットが創られ、そこで結婚式をさせてもらえる機会があった。
そこから観光地や、想い出の場所などお客様のご要望からの結婚式を立て続けに担当させて頂く時期が続いた。そんな中、2013年2月に関わり始めたときからもしかしたらこのお客様は自分にとって、大きな転機になるのでは?と思ったのが2014年にリクルートブライダル総研のGWAに申し込むことになったお二人の結婚式だった。
この結婚式は、2011年から6次産業化プランナーとして活動していた事が大きなきっかけになっている。新規就農者だったお二人はウエディングプランナーであり、農業のコトもわかってくれる私に。というコトからの出会いだったからだ。6次産業化プランナーとしては2014年9月デザイン等のディレクションした農家の商品がグッドデザイン賞を受賞している。
その後エクラとしてのカラーが固まってきたことで、2016年次男に社長をバトンタッチした。わたしはこれからも自由な発想で「繋がれる」コトを考えていけたらと思っている。